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この項目では、映画館の一形態について説明しています。音楽アルバムについては「ミニシアター (中原麻衣のアルバム)」をご覧ください。
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ミニシアター (mini theater) は、日本の映画館のうち、ブロックブッキングなどによる大手映画会社の直接の影響下にない独立的なものを指す呼称である。
旧来の「単館系」を含む。大手のシネマコンプレックス(シネコン)では上映されないようなマイナーかつ低予算な作品が上映されることが多く、そのためアート性、ドキュメンタリー性の強い作品や、デビューしたばかりの監督や俳優の作品が観られることも多い[1]。確実に客入りが見込める作品がほとんどの大手シネコンと違い、ミニシアターは小規模であるが各館が作品を発掘・厳選して独自性を打ち出しており、各館には固定ファンも付いている[1]。ただし、SNS時代になりミニシアター系映画の中でも先鋭的な作品が数多くヒットするようになると、大手シネコンでもミニシアター枠の上映を設けることが増え、ミニシアターも苦境に立たされている。
ミニシアターから口コミで人気が広まり大ヒット作となった例もあり、監督や俳優にとっては登竜門的な側面もある[1]。音楽家など、普段は映画業界以外で活動する者が副業的に作った作品などもミニシアター限定で上映されることがある。 1968年(昭和43年)に設立された岩波ホールの総支配人だった高野悦子と、彼女を支えた東宝東和の川喜多かしこが、1974年(昭和49年)にエキプ・ド・シネマ(フランス語で「映画の仲間」の意)をスタートし、ロードショー公開されない世界中の良作を上映する運動を始めたことがミニシアターの始まりである[2][3]。 これに先立つ1973年(昭和48年)11月に三越が日本橋本店の南館内に名画座の三越映画劇場第一号館を作り[4][5][6]、以降チェーン化され、全国複数の三越店舗内にミニシアターが建設された[4][5][6][7][8]。三越映画劇場は東映社長の岡田茂が、同姓同名で仲の良かった三越社長の岡田茂に建設を提案したもの[4]で、東映の岡田は『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューで「私はミニ・シアター・システムを考えている。映画館のない都市、盛り場に八十坪でも百坪でもいいからミニ・シアターを作るんだ。もちろん映写はオートマチック。失われた映画館の復活だ。これをチェーン化してやればいい。独立プロの連中が苦しんでいるのは興行部門がないからなんだ。だからこそミニ・シアター・チェーンの意味も出てくるのだ」[9]と話すなど、当時の複数の文献で「ミニ・シアター・チェーン」構想を述べており[10][11][12]、実際に東映でも1979年4月に東映シネマサーキット (TCC) という「ミニ・シアター・チェーン」を発足させている[13][14][15][16]。 原正人は「ミニシアターの先駆は何と言っても(自身が設立に関与し、1981年12月11日に開館した)シネマスクエアとうきゅうですよ」[17]、「シネマスクエアとうきゅうにならう形で、続々と単館ロードショウの劇場が都内に増えていきました。それらは『ミニシアター』と呼ばれ、西友系のシネセゾンが、1983年にシネヴィヴァン六本木、翌年キネカ大森、翌々年にシネセゾン渋谷、そして1986年に銀座テアトル西友をオープンさせたのを始め、1986年にはシネマライズ渋谷が、1987年にはシネスイッチ銀座、日比谷のシャンテシネ、1989年には渋谷のBunkamuraル・シネマと次々に個性的な劇場が誕生し、80年代はまさにミニシアター・ラッシュでした」[18]などと述べている。シネマスクエアとうきゅうを建設したのは、当時東急レクリエーション社長を兼ねていた岡田茂東映社長であった[19]。 原正人がミニシアターを発想したのは、意外なことにシネコンからだという[18]。原は1981年10月、日本でもいずれシネコンの時代が来るだろうと[18]、ビジネス上の付き合いがあった東映の鈴木常承取締役営業部長に話を持ち掛け、ヘラルド・エースの主催で32人の劇場関係者とジャーナリストを連れて、アメリカ、カナダ、ヨーロッパのシネコンを視察に回った[18]。原としては、日本では劇場システム(大手が握る劇場チェーン)が大きすぎて、全国公開できるような作品でないと上映できず、小品でも良質な映画をたくさん上映できる方法はないか、と考えシネコンに期待していた[18]。
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